僕は神奈川県川崎市で生まれました。
詳しく言うと、生まれたのは、お母さんの地元の宮崎県都城市でした。
いわゆる里帰り出産でした。
父は虎ノ門で働いていました。
JTでした。
その当時はタバコも売れてて、しかも国営だったので公務員みたいな感じだったんだと思います。
ディズニーランドにもしょっちゅう行っていたみたいです。
としまえんにも。
ディズニーシーがまだない頃ですね。
1番幼い記憶は幼稚園ですかね。
僕の家族は転勤族だったので、鹿児島にいた時だったと思います。
社宅のアパートの下でゲームボーイをしていたら、歳の離れた小学生くらいの男の子に画面を見られたというのが最初の記憶です。
ちなみにやっていたゲームソフトはワリオのなんか横スクロール的なやつでした。
それで転勤になった時に幼稚園の女の子に泣かれたらしいのですが、僕は覚えていません。
僕は笑っていたみたいです。
福岡では幼稚園の年長さんだったんですが、園長が恐くて行きたくないと言ったら、最後の1年間は公園で遊んでいたらしいです。
ちなみに園長は女の人でした。
その頃はゲームも好きでした。
マイナーなセガサターンが家にありました。
ソフトもかなりあったと思います。
野球部でもありました。
あまり乗り気じゃなかったです。
初めて練習をした時は、ボール拾いもせずに、ぼーっとしていたので、先輩から殴られて、それでめんどくせーなと思いました。
引っ越すことになり、なんか会を開かれて、それで人間トンネルをくぐり、会を終えました。
両親は泣いていたので、びっくりした覚えがあります。
バットに寄せ書きを書いてもらいました。
次は鹿児島なんですが2回目の鹿児島ですね。
そこは半年?かそこらだったと思います。
近くの公園で自転車を練習してたら1日で乗れるようになりました。
自転車でどっかに行っている途中で、信号待ちしている初々しいカップルがいたのですが、そこは押しボタン式だったので、僕が押してあげました。
いい感じでした。
東別府くんが「お腹すいたー」って言ったら先生からビンタされていました。
少し可哀想でした。
あと、「先生なんか嫌いだー」って言って教室から出ていった子もいました。
最後の引っ越しで宮崎県都城市に引っ越しました。
そこで一戸建てを買って、それからは定住しました。
2000年10歳の時でした。
それからは中学3年生まで困ることなく、学校生活を送っていました。
はじめての「悩み」はありました。
日記帳の先生欄に友達が勝手に「クソババア」とかなんとか書いて、ちょっと険悪なモードになったり。
アイラブけんちゃんと言われて、よくわからなかったから無視してたら、3年のクラス替えでまた同じクラスになった時に少し意地悪をされたり。
それくらいですかね。
高校受験で高専を受けて、それで合格したら、燃え尽き症候群になって、いろんなことが面倒くさくなりました。
高専での生活は中学の生活とは比べ物にならないくらい薄い内容でした。
つまらないところでした。
昼休みはパソコン室で遊んでいました。
行きたくない時は漫画喫茶やブックオフなんかに行ってました。
そうこうしているうちに、高専は中退しました。
中退してからの1年間は気が楽でした。
パソコンのフラッシュゲームを毎日やっていました。
若者自立支援塾みたいなところにも行きました。
3ヶ月間行きました。
免許も取りに行きました。
その時の教官から「これからどうするんだ」みたいなことを言われた気がします。
ゲームが好きだったので、ゲーム制作をしたいと思いました。
ゲーム企業がほとんど東京に集まっていると聞いて、よし東京に行こうと思いました。
専門学校に奨学金をもらって行こうと思ったけど、父から反対されました。
仕方ないのでアルバイトをしながら、行こうと思ったのですが、続かず、3ヶ月で辞めました。
しかし、東京に行ったことはかなり勉強になりました。これがないのとあったのでは全然違ってきたと思います。
都城市に戻ってきて、次になんかアルバイトでもすると言って、宮崎市のアパートを借りて、職を探していたのですが、これもうまく行かず、自殺未遂をしていまします。
実家に戻り、暗い日々を送ります。
それもありましたが、ニコニコ生放送というニコニコ動画の生放送をずっと見ていました。
かなり面白かったです。
それでも流行りはすぐに廃れ、いろんな生主さんが辞めていき、つまらんやつらばかりになったら、見なくなりました。
自分でもlivetubeで配信をしました。
まあまあ面白かったです。
配信中に自殺未遂をしたりしたこともありました。
2012年11月3日に改めておかしくなり、気絶をしました。
それからは、落ち着いて暮らしていました。
2013年の12月頃に水野昭夫さんと首藤照美がうちに来て、話す機会が設けられました。
その時は、勝手にスケジュールを組んだことに怒っていましたが、最後に「ここで行動しないとどうにもならないよ」と言われ、それで大空館に行く気持ちになりました。
最初の大空館は、クリスマス会でした。
男性スタッフが女装してかなり盛り上がっていました。
僕はよく分からず見ていました。
それ以降大空館で過ごしました。
何が勉強になったかと言われると、皆さんかなりプロフェッショナルとしてやってるなぁという印象でした。
都城市では絶対にないと思います。
そこで過ごすうちに自分というものを取り戻したというか、楽しく人生を過ごせるような後味がしたというか。
しかし、それでは終わりませんでした。
状態が悪くなり、入院することになりました。
16:00に入院しました。
そこからは割愛。
退院しても良くはならず、2016年1月に大空館を退所しました。
それからはこころさんにお世話になりました。
それからも割愛。
2017年は入院していて、かなりいろんなことがあったのですがこれも割愛。
2018年1月に退院、2018年5月に再入院、2019年にまた自殺未遂をし、2020年の1月に再入院、2020年の7月に退院。
2020年の9月からモジラ・テラスさんにお世話になりました。
最初はなかなか心を開けなかったのですが、2021年の4月からモジラ・プラウドさんにお世話になり、そこからは心を開けるようになりました。
今は幸せです。